「軍師殿、降りてはくれないか」
呆れたようにつぶやくと、彼はよいしょ、と掛け声をかけ、下に少しずつずれていた、背負っていたものを持ち上げ直す。
「嫌です、私は疲れました」
彼の背中の向こうから不満気な返事が返ってくる。
彼から伺い見ることは出来ぬがおそらくは口を尖らせているのだろう。
長い付き合いの産物か、容易にそれが想像でき、ふ、と彼に気取られぬように薄く笑い、わかりましたよ、と背中の男に声をかける。
「けれども、私だって疲れているのだが……そのあたりはどうお考えで?」
「子竜殿は軍師の体力のなさを知りませんね」
「自慢できることではないぞ……第一軍師殿だって軍を率いるということの大変さを――」
「つーかーれーまーしーたー」
彼――趙雲の肩に触れていた手が勢いよく離れる。
おそらくその手は、耳を塞いでいるのだろう。
だが、捕まって、いや、しがみついていた手を離したことで、
均衡を崩してしまったのだろう、背中が軽くなったと思ったその瞬間
「ぐ…」
大きく後ろに傾いだ、が身体に染み付いた軍人としての勘が彼の、いや二人の転倒を間一髪で防いだ。
肩に再び手が戻る。
「たく、危ないだろう」
返事は無かった。見えぬ表情から伺い知ることもできない。
もっとも、彼が振り向いたところで何を考えているなぞ解ることもないだろう。
一回りは優に年下のこの軍師殿はそれを武器としているのだから。
「だがそれがいい」
漏れていた心の呟きを、確りと掴んでいたらしい。肩にぎゅっと力が入る。
「何がですか」
「さあ、……きっと軍師殿には解らぬとみえるな」
首にするすると腕が回り、耳元に言葉が触れる。
それは男女の愛の囁きにも似ていた、だがそうではなかった、
「子竜殿はよっぽど前線に立ちたいと見えますね」
軍師の口から出たそれは愛などではなく意地の悪い子供の悪態であった。
「不注意な軍師殿の指揮する軍なんて勘弁願いたいな」
もちろん負けじと彼も言い返す。
「……子竜殿の嫌味吐き」
「軍師殿の腹黒」
一瞬の沈黙の後、どちらともなく、ぼそぼそとお互いの悪口を言い合う二人。
しばしその応酬は続いたが、やがて辿り着いた莫迦と阿呆の繰り返しを壊すように、ふう、と態とらしくため息をついた趙雲。
「全く、本当に孔明殿は口から産まれてきたのだろうな」
沈黙。
しん、と広がる闇の中、彼の声だけが響き、やがて消えていく。
「孔明殿?」
常に何か含んでいるであろう、その彼の言葉を待つように、すっと耳をすませる。
先ほどは静寂のように感じられた闇の彼方から、酒場の喧噪がかすかに吹く風に乗り流れてくる。
しばしそれに耳を傾けていた彼だったが、やがてその喧噪に、後ろからのくくく、と押し殺した笑いが混じる。
「何が可笑しい?」
どうやら後ろだけで勝手に満足しているらしい、足を止め、……半ば呆れつつ問いかける彼。
「くくく、何でもありません」
きゅ、と少しだけ首に巻かれた腕の力が強くなる。
暫く黙りこくっていた趙雲だったが、やがて諦めたように不愉快だ、と一言呟いた。
だが、その語調に刺々しさは全く無かった。
ひとつの影は、ゆっくりと歩き始めた。
照れ隠しであった。
久しぶり、だったから。
- 作品名
- Under the moon -何気ない夜の話
- 登録日時
- 2008/11/14(金) 00:00
- 分類
- 文::創作三国志-孔明&趙雲