丸い月の見える、とある夜の話。
とある城の一室、一人の男が窓に腰掛け、それを仰いでいた。
手には月を捕まえた小さな杯を持ち、暫し眺めていたかと思うと中の月ごと中身を一息に呷り、俯くと小さくため息をつく。
再び顔を上げた、彼の視線の先には蜀と書かれた軍旗が夜風に翻り、ばたばたと音を立てている。
彼の名は趙雲、字は子竜、彼はこの城に仕える武官であった。
今宵、彼は珍しく、独りで過ごしている。
いつもであれば彼の部屋には同僚、部下、或いは君主までもが居座っており、趙雲は常に誰かと話をするか誰かの面倒をみているか、どちらかの行動をとっていると言っても過言ではなかった。
元々が劉備の主騎であるが故に、それを苦にしないこともあったのだろう。
そのため、独りの彼を知るものは数える程だった。
特に、蜀入りしてからはその機会も殆どない様子であった。
だが、翌日からの討伐を控え、他の将軍も調整に入っているのだろう、夜も浅いというのに、彼の部屋を訪れる者はいなかった。
仁を唱える者の国故、珍しく与えられた独りの時間を楽しむように、趙雲は酒瓶に手をのばす。
とくとく、という音が部屋に響き、歪んだ月が杯に煌めいた。
それが気に入ったのか、趙雲は口をつけずに静まるのを待っていたその時であった。
「子竜殿、よろしいでしょうか」
落ち着いた声が、彼と月との対話を遮り、一人の青年が部屋へと入る。
「ああ、孔明殿か」
振り向き、彼は青年の名を呼んだ、もちろん、窓枠より降りながら。
「少しばかり話があるのです」
手で部屋中央に置かれた机を指し、彼、諸葛亮に着席するよう促した。
「構わない」
部屋の扉を閉め、彼自身も続く。手には椀を二つ持ち。
「誰にも聞かれないよう、一度で覚えてください」
「解った」
頷く趙雲。
「そなたが来たときからそのような予感はしていた」
趙雲が口にした事に、諸葛亮は笑うと大きく頷く。
「大事な事なのです、どうか内密に行動に移してください」
再び頷いた趙雲に、諸葛亮は笑んでいた顔を直し、一枚の地図を広げる。
「貴方には敵兵の攪乱、ならびに先鋒の殲滅をお願いしたいのです」
机上に広がる地図、その一点を指し、諸葛亮は言う。
「まず、わざと負け、敵兵を追撃させます、次に城に逃げ込む振りをし…」
そこより縦横無尽に動く指、そして諸葛亮が口を動かす度に、彼の考えが一つ一つ色を持った形、戦術となる。
「…その時に、翼徳殿の軍が動きます、子竜殿はそれに加勢し追討してください。以上です」
ある一点まで指を進めると、彼は趙雲を見つめた。返事をうながしているのだ。
趙雲は椀を呷り、暫くその作戦を噛み締めたあと、ふ、と呟く。
「はて、部屋を訪れてまで内密にしたい作戦であったか」
それに、にこやかに応える諸葛亮。
「何かと心配でして……大丈夫でしょうか」
もう一度、今度は納得したかのように頷く趙雲。
「うむ、大丈夫だ」
そう言うと、地図を指でなぞる。
「本当に、やってくれますか」
ちらり、と横目で諸葛亮の椀を眺める。
少しも減っていない彼の椀の中には、月が傾いたのか、捕らえられた白い円が描かれている。
「それは命令だろう」
視線を椀から地図へと戻す。彼と同じく地図を指す諸葛亮の手は白く、微かに震えている。
決して月の光のせいだけではない。
「…大丈夫だ」
ふう、とため息をつき、彼は立ち上がった。
「子竜殿、何を」
そのまま、逃げ出そうと構える間もなくひょろ長い彼を小脇に抱えると寝台へ押し倒した。
「やっ、何を、やめてください」
ばたばたと暴れる諸葛亮だったが、やがて力ではかなわないと覚ると大人しく横になる。
「好きにしたらいいでしょう」
抵抗が無くなったのを見て、満足したかのように趙雲は手を離す。
「何を言っている……起こしてさしあげるから、少し寝ろ」
同時に、彼の顔に何かが掛かる。それは大きな布団であった。
「しかし」
「大丈夫だ」
ぐぅ…という音が彼の喉から起こり、諸葛亮は彼を睨み付けると布団にくるまった。
「…馬鹿主騎」
芋虫のような布団の山から悪態が漏れ出る。
「馬鹿で結構、早く寝ろ、不機嫌では堪らん」
呟く趙雲の隣、布団の甲羅から、諸葛亮の顔が覗く。
彼は趙雲をじっと見ていたが
「本当に大丈夫ですか?」
と再び訊ねる。
「何度言わせる気だ…まさか」
どこか怪訝そうに答えていた趙雲だったが、やがて何かに気づいたのか、口を閉ざし、再び開く。
「何があれども、大丈夫、だ」
大丈夫、に重きを置いた趙雲の言葉に布団の亀はにやりと笑う。
「ふふふっ、貴方の大丈夫は本当に大丈夫な気がするのです」
そのままにやにやと笑い続ける亀を見下ろし、趙雲はおおきくため息をついた。
まるで、空に浮かぶ月に届くかのようなおおきなため息を。
- 作品名
- Feel all right!
- 登録日時
- 2009/06/22(月) 00:00
- 分類
- 文::創作三国志-孔明&趙雲