「……えっ?」
頭に疑問符をいくつもいくつも浮かべ、趙雲は思わず取り落とした筆へ手を伸ばした。
「にゃむにゃむ……との……いけません」
高らかに筆の落下音が鳴り響いたというのに、諸葛亮は目を堅く閉じたまま、夢の中の劉備と遊戯でもしているのだろう、固まってしまった趙雲のそれとは裏腹に、幸せそうな笑みを浮かべている。
「……よく寝ておられる」
あきれたように苦笑いを浮かべ、そんな彼に目をやり、……すぐに趙雲は目の前の青年に瞳を戻した。
当陽の英雄、趙子龍が、こんなことで現実から逃げ出すなどと!
「ああ、私の聞き間違いであったようだ。姜伯約殿」
うろたえを、言葉だけではなく瞳の奥に浮かばせながら、趙雲は再度彼に言葉をかける。現実に背中を向けまくりなことこの上ない。だが、同時に現実は簡単に彼を逃してはくれなかった。
「ですから」
うつむく姜維。……頭頂できつく結んだ一本髪がふるふると震えていた。
「ああ」
趙雲は頷く。
「……ですから、言いましたよね」
「ああ」
ばっ、と姜維が顔をあげた。その頬はうっすらと桜色に染まり、その瞳には何か決意の色が浮かんでいた。
「孟起殿のこと、すきなんですっ」
再び、甲高い音を立てて、筆が転がった。固まってしまった、趙雲の手より。
そんな瞬間を、キミに。
しばし、沈黙。
それを破ったのは、趙雲のため息だった。
「……冗談じゃ」
「ありませんよ」
ふっと膨れながら、どこか居心地悪そうに視線を逸らす姜維。それもそのはずだろう、と、趙雲は内心頷く。
今まで、彼に関して、浮いた話など耳にしたことがなかったからだった。
その生真面目さ、ひたむきさ……あるいは堅さと呼ぶのかもしれないが……は師に似て女官も置かず、仕事のない休みは書庫に篭もっているのを複数の人間が見かけるほどだった。
だが、その口から、好きだという言葉が出てくるとは。
「ああそうか、……ああそうか」
すっかり冷めてしまった茶を呷りながら、趙雲は頷いた。
「何がそうかなんですか」
「いや、すまぬ。……私もそういうことにとんと疎くてな」
一つ頷く趙雲。姜維もつられて頷く。
「……ああ、本当にすまぬ。少し時間をいただけるか」
照れ隠しなのか、姜維はにこりと笑い、趙雲と諸葛亮のよく見える席へと移動した。
ああ、この心がこちらに向いていれば、もう少し話は簡単だっただろうに。
心の中で再び呟く趙雲に、姜維は首を傾げるのみであった。
「で、軍師殿、馬鹿軍師殿、起きてはくださらぬか」
まだどこかぼんやりとしている自らの頬を軽く叩きながら、趙雲は隣で未だ劉備をからかって遊んでいるらしい夢の中の諸葛亮の肩を掴んで揺すぶった。
「……なんですかぁもう……」
もぞもぞとふせっていた山が動き出す。
「起きてください馬鹿軍師殿」
「なっ」
先ほどまでの趙雲の日ではない音を立て、周りの木簡や竹簡の山を散らしながら諸葛亮は飛び起きた。
「馬鹿軍師って言いましたか」
「言ったが何か」
寝起き独特のむき出しの感情のまま、趙雲にぎりぎりと詰め寄る諸葛亮。
「どこがですか」
それを押し隠すことなく、気持ちのまま胸ぐらを掴み問いかける。
おそらく、寝ることを愛する彼にとって起こされたことも気に食わないのだろう。完全な八つ当たりである。
「弟子の相談ぐらい聞いてやれ」
だが、趙雲は臆することもなく、視線を奥の姜維へと向けた。
「えっ」
「丞相?」
師の振る舞いに思わず苦笑いを浮かべる姜維。
「あ、ああ、姜維、いたのですか……」
バツが悪そうに手の力を緩める諸葛亮。
「すみません、丞相、……子龍殿、止める時機を逸してしまいまして」
頭を下げ、謝る姜維に、趙雲は笑いながら答える。
「伯約殿が止められるなら、私もこんな胸ぐらを掴まれはしない」
どこかむっとした表情の諸葛亮を後目に、趙雲はそれよりもだ、と彼を促した。
「孔明殿、聞かれたか?」
首を横に振り、姜維に向き直る。
「……どうしたというのです?」
同時に、趙雲は立ち上がった。彼らの前に置いてある茶碗が空であることに気付いたからであった。
「実は丞相、」
かちゃ、かちゃ、と陶器の音が部屋に広がる。
「……どうしました、口ごもるなんて」
「実は私、好きなんです」
ふわりと広がる茶の香りが、三人の間に広がった。
「へえ、誰を」
しばらくの沈黙。そして、趙雲がそっと諸葛亮に茶碗を差しだし、それを受け止めようと彼は手を伸ばす。
「孟起殿です」
がちゃん。
茶碗を乗せた手が急に震え、諸葛亮はそれを取り落としてしまった。
「えっ」
ふう、とため息。それは趙雲のものだった。
「……子龍殿?」
「こちらを向くな。私も動揺している」
手ぬぐいを渡し、割れた破片を広い集めている趙雲はつい、と肩を竦めた。
「ああ、そうですか、……けれど伯約」
「はい!」
恥ずかしいのだろうか茶碗に口を付けていた姜維がぱっと顔をあげた。
「おやめなさい」
瞬間、部屋が固まる。
「……その気持ちは分からなくもないが」
「どうしてですか、丞相、子龍殿」
淹れ直した茶を、どこか困ったような顔をした趙雲から受け取ると、諸葛亮は一息つき、そして口を開く。
「そもそも、あなたと孟起殿に接点があるとは思えないのですが……」
隣で同じように茶碗に口を付け、趙雲も頷く。
「全く同感だ、右に同じく」
頷き、ふと諸葛亮の裾に瞳を投げ、彼の目が大きく開かれる。
「……でもまあ、私は止めませんが、おすすめは出来ません」
そもそも、どこが?そうつぶやき、首を傾げる諸葛亮。
微笑むその表情からは、単純な疑問と、少しの嫉妬が混じっていたが、後者を推し量れるのは妻と主君ぐらい、それはそれは微々たるものであった。
「それが……私にもよく解らないんですけれど」
木簡を開き、目を丸くしている趙雲の横、茶碗に口を付ける。
「戦場で見ると、はっとしてしまうのです」
「では」
木簡や竹簡の山に次から次へと目を通しながら、趙雲は問うた。
「話したことは」
「あまり……ないですね」
再び首を傾げる姜維。
「だからやめておきなさいと言っているのです」
そんな彼に諸葛亮が再び追い討ちをかける。
「そうだろうか?私はいいと思うが」
木簡を投げ、趙雲が顔をあげた。
「また子龍殿は勝手なことを」
「また、とは……私は勝手なことをあまり申し上げたことはないのだが……それに孟起殿と言えば」
くるくると木簡を纏めると、それを、
「どうしました?」
「どうしたというのですか?」
きょとんと同じ顔で疑問を浮かべる師弟の方へと丁寧に置いた。
「これ、孟起殿の頼まれ事だろう?……先ほど孔明殿が茶碗を落としたときに字が流れてしまった」
その瞬間、木簡がすさまじい早さで消え、諸葛亮の手の上へと移動した。
「あああ……!」
目にも止まらぬその早さで開かれた木簡に、諸葛亮が悲鳴をあげ、姜維は言葉を失った。
「これ、もう少しで」
もう少しで、の続きが諸葛亮から発せられるか否か、彼らの居室の扉が、派手な音を立て開かれた。
趙雲も、諸葛亮も、そして姜維も、動きが止まる。
噂をすれば何とやら。そこには噂の主、馬超が肩をいからせ立っていた。
彼は腰に手を当て満面の笑みを浮かべると、目を丸く……いや、目を点にした趙雲と諸葛亮に話しかけた。
「約束の書状、出来ているか?」
「あ、……えっと」
「そ、それは……」
おろおろと動く二人に、固まったままの姜維。
三人の顔には「まずい」という文字がありありと浮かんでいた。
だが、馬超はそんな彼らの表情には気付かぬ様子で一同を見回し、姜維を認める。
「んっ?……お前」
「は、はいっ!」
びくり、と姜維の髪が揺れた。こそこそと囁きあう軍師と将軍。
「そうか、孔明殿の弟子というのはお前のことだったのか」
「えっ、……私をご存じで?」
まあな、と馬超は机の空いているところに腰を下ろした。
「スジのいい奴だと思ってたんだよな、そうか……確か、きょ」
「姜伯約です」
肩を竦め、名乗る姜維の頭に、ぽんっと大きな手が置かれた。それは馬超のものだった。
……見る見るうちに、彼の頬が上気していくのが手に取るようだ、内心、趙雲は呟いた。
そして、同時に、おもしろいことになりそうだ、とも。
「おい、濡らしたって本当か!?」
ぱちくりと目を丸くする馬超に、珍しく頭を下げる諸葛亮。
「すぐに書き直します」
馬超は、彼の言葉に、ふ、とため息を付く。
「……まあ、疲れてたんなら仕方ないな、どれくらいだ?」
「ざっと、半時ほど」
諸葛亮の言葉に、彼はふっと笑うと、
「じゃあ、少しこいつ借りていくぞ」
と姜維の腕を取った。
「えっ」
「あっ」
「ああっ……」
三人三様の反応が返ってくるが、彼はお構いなしに部屋の出口へと向かった。
「……解りました」
その背中に、「人質」の師の声が投げられる。
「ただし、終わったら返してくださいね!」
「あたりまえだろ!」
腕を引かれながらも、姜維が振り返る。
「……ええと、行ってきます、丞相!」
「行ってらっしゃい……伯約」
ばたばたばた、という足音が遠ざかっていった後、趙雲がそっと呟いた。
「よかったのか」
「……弟子はさっさと返してもらいます。後子龍殿」
「はい」
「お茶のお代わりは要りませんから」
ぶっ。趙雲は吹き出した。
- 作品名
- そんな瞬間を、キミに。(無双馬姜)
- 登録日時
- 2011/02/26(土) 01:07
- 分類
- 文::三國無双