ふ、と彼は馬首を返した。
血の臭いと肉が燃える臭いの混じり合う濁った空気の中、直ぐに不安と恐怖、汚れた手の気持ち悪さを自慢気な表情に無理やり抑え込んだ青年を見付ける。
彼は、ただ呟く。終わりました、軍師殿、と。
リバーサイド・ムーン
将兵無礼講、勝利の美酒にざわめく本陣から、諸葛亮が退出したことに気付いたのは彼だけであったようだ。
後を尾ける積りはなかったのだが、結果的には同じ事である、趙雲は姿は消しつつ気配は消さず、そのまま彼の後を追う。
月の綺麗な夜だった。
諸葛亮はゆったりと歩を進め、やがて小さな湖の前で足を止める。
「子竜殿、いるのでしょう?」
柔らかい声で彼は言う。それは、居ることは知っています、話をしたいから出てきてほしい、といった僅かな願いも言葉の外に含ませていた。
「すまないな」
月の照らす、凜とした夜を壊さぬよう、彼は潜んでいた草むらから姿を現した。
「出る時機を無くしたからな」
諸葛亮が振り返る。
「いいのですよ、それより」
「何か私に用なのか」
趙雲は彼の隣に腰を降ろす。
「ええ、用ですとも」
諸葛亮もそれに倣いゆっくりと座り込み、口を開いた。
「見直しました?」
「何の話だ」
問い掛ける孔明に問い返す趙雲。
それが気に食わなかったのか、むっと口をとがらせ、青年は呟く。今日の戦いのことです、と。
「つまりは誉めろと言っているのか」
「む…まあ、そうかもしれないですけれども」
遠く、物が焦げる臭いが僅かに漂いくる。
「評定で、子竜殿、貴方だけが無言でしたから」
石をつまみ上げる趙雲。
「敏いな、だがさほど見直してはいない」
ぽちゃん、という音と共に、湖に波紋が広がる。
「な、……なんでですか」
ぽちゃん、隣の青年も石を投げ入れ、湖に浮かぶ月が揺らめく。
「やれやれ…一から説明しなくてはならないのか?」
「私だって万能ではありません」
その言葉に、一瞬、呆気にとられた表情を浮かべる趙雲。
だが、すぐに口の端を歪め、石を投げた。
「先程から可笑しいぞ、孔明殿」
「何がですか」
波紋がひとつ。
「気付いていないのが一層可笑しいな」
「子竜殿…いい加減にしないと…」
手持ちの羽扇でぺしんぺしんと地面を叩き、ぶつぶつと文句を口にする諸葛亮に、流石にからかい過ぎたと感じたのか、趙雲は顔の笑みは残したままではあったが、彼をじっと見つめた。
「…見直したか、万能ではない」
彼の口から出た言葉に、地面を叩く音がぴたりと止む。
「翼徳殿の前で言うと締め上げられるぞ?」
僅かな沈黙。やがて諸葛亮が頷く。
「全くですね」
「それは本音か」
「さあ?」
首を傾げ、羽扇で自らを扇ぐ諸葛亮。彼の隣で月を見上げる趙雲。
しん、と冷めたような空気の中、先程の波紋同士がぶつかり合い、交差する。
「子竜殿、結局話してはくれないのですか」
「しつこい軍師殿だ」
「しつこくて結構。で?」
やれやれ、趙雲は心の中でそう呟き、肩を竦める。
――私もここまで年下の新米軍師に意地をはることもないだろう。
そしてふたつほど瞬きをすると口を開く。
「私からは改めて見直すほど落ち度は無かったと思うが?ということだ」
「何ですかそれ」
「解らぬか、……期待通りだった」
諸葛亮の目がわずかに大きく開かれる。
「主騎として…僅かながらも共に居たが故の評価だと思ってはいるが」
「それは」
大きく開かれた目がすうっと細くなる。
しかしそれは睨み付ける類の物ではなかった。
「非常に好意的な解釈をしても構いません、ね?」
「好きにしてくれ」
そう言うと立ち上がり、大きく身体を伸ばす趙雲。それを横目で眺めながら諸葛亮は訊いた。
「戻らないのですか」
「泣きそうな顔をしていた軍師殿を放って帰れるか」
趙雲の言葉に諸葛亮はついっ、と顔を背け、ぼそぼそと呟く。
お節介な主騎なんて望んでませんけどね、と。
- 作品名
- リバーサイド・ムーン
- 登録日時
- 2009/04/30(木) 00:00
- 分類
- 文::創作三国志-孔明&趙雲