伸ばしても届かない手は、しかし違う物を掴んでいた。
穏やかに流れる夜の川、その水面が突然激しく揺れ、ひとりの青年が顔を出した。
何かを抱えたまま彼はひとつ息を付き、近くにある小舟へと進む。
程なくそれの端を掴んだ青年は、抱えていたものを中へ投げ入れる。
「孔明殿」
彼は振り返る。濃紺の空に浮かぶ星を焼ききってしまいそうな程に燃える炎は、だが遠く広がり、臭いも音も、彼らの元へは届かない。
「火計は、成功したようだ」
再び、抱えていた何か――諸葛亮に向かい合う。
「……生きているか」
体を小舟へと滑り込ませながら、彼は、諸葛亮の胸を叩く。
その衝撃でしばらく噎せる諸葛亮だったが、やがて体を起こすと虚ろな瞳を彼へと投げた。
「し…りゅう、どの?」
「生きておられたか」
体に纏わりついた水を払うかのように首を振る諸葛亮を眺め、彼、趙雲は薄く笑みを浮かべる。
「…残念ですね、生きてましたよ」
「そうか、残念だな」
お互いの視線が交わり、瞬きのような沈黙、そして二人は笑い声を上げる。
「残念です、本当に!…でも」
趙雲の笑いが落ち着いたのを見計らい、諸葛亮は微笑む。
「助けられてしまいましたね」
「全くだ」
趙雲は頷き、再び全くだ、と口にする。
ざあっという音と共に、彼らの頬を焦げた臭いが交じった生温い風が撫でる。
「……反撃、ですか」
「ああ」
頷きながら、趙雲は小舟に無造作に打ち捨てられた櫂を手にする。
「忙しくなるな」
「ですね、……ただ」
ゆっくりと櫂に合わせ舟が動き出す。
「ただ?」
「その前に着替えたいですね」
「相違ないな…英殿の温かいうどんがつけばなお良いが」
彼の言葉に、上着を脱ぎながら諸葛亮は首を傾げる。
「…そんなに、おいしかったですか?」
「あれの美味さが解らぬ孔明殿は贅沢だぞ」
上着を脱いだが寒かったのか、再び羽織る諸葛亮。
羽織りながら、趙雲を見上げ、にやりと笑う。
「では、祝宴にはご用意致しましょう、ただし」
「勝てるならば、か?」
遙か遠く、墨を落としたような黒い対岸を眺め、趙雲は呟いた。
「いえ」
櫂の、水を切る音が二つほど響く。
「いくら英のうどんがおいしいとはいえ、大切な妻は子竜殿には譲れませんね」
水を切る音が止まる。
「なぜそのような話になる」
「…さあ?ご自分の胸に聞いてみればよろしいでしょう?」
ひときわ大きく、ばちゃりという音が水面に波紋と共に広がる。
……この性格だからだろうか、周郎殿に狙われたのは。
そう、趙雲が心の中で呟いた僅かの後、黒く広がる対岸に小さな炎が点り、彼らの目をさらった。
やがてそれは彼らの見ている中で、大きく、大きく膨らんでいった。
「ただいま、ですね」
諸葛亮が呟く。趙雲も、炎を見つめ、頷いた。
「ああ、ただいま、だ」
――炎の中で手を振る、主君の顔を見つけて。
- 作品名
- Water fall
- 登録日時
- 2009/05/26(火) 00:00
- 分類
- 文::創作三国志-孔明&趙雲